のび太とノビスケ


親の愛は感じないわけではないけれど、親も人間。今から思うと親という範疇を超えて不当な扱いを受けることがあるよね。

うちんちの場合、仕事でうまくいってないときは親はやっぱりいらいらしてるし、そんなときに怒らせるようなことをすると、少々八つ当たり何じゃないかと思うぐらい過剰に怒られた事もある。(ピーマン食べ残しただけでどつかれて家を追い出されたりとかね)


そのことは忘れないし、忘れられない不条理な思い出だ。でも今となっては親子間コミュニケーションの一部に昇華している。私は気軽に親に「アレは忘れられないよ、ひどいよー」というし、親は「ごめんねっていってるやん、もうー」と返すというふうに。今となってはその気持ちもわからないでもないから。親も不完全な人間だし私も同様だ。親はできるかぎり私に愛を注いでくれたし、それは私も知っている。私は親はいとおしいし、親も私に対して同じ気持ちだろう。ただ口に出して言わないだけだ。


でも親への愛の感じ方は千差万別だ。親は親として完璧であって揺るがないという人もいるだろう。子供は親の成果であり子供は親の絶対的な力に守られて育ってきた。そういう妄信的な人に、もっと親に感謝して親が生きているうちに精一杯感謝し尽くすべきだと説教された。死んだら後悔するぞと。


私は非常にムカついた。私は私にできることは既にやっているし、親が急に亡くなっても後悔しない。私は自分の生き方に誇りを持っているし後悔していない。親は私に後悔しないような人生を生きてほしいと願っていて私はそのとおりに生きている。私が親にもそうあってほしいと願っている。のび太とノビスケのような関係。遠い時空で心配しあうが、ちゃんと異なる人間として対等に対峙しあう。それで良いではないか。


この説教は正直わからないというか、どっちかというとステレオタイプすぎて不気味に感じてしまったのだけれども、その人の親への気持ちに水を差すのもアレなのでもう黙っておいた。通じないだろう。こういう親の愛の話とかになると感じ方が人によって違うので、まったく不毛な会話だなぁ。


結局何が言いたいかというと、のび太とノビスケという例えを思いついていれば、あのときの長く不毛な説教に終止符を打てたと思うと、思いつかなかった自分が悔しかったつーことです。のび太とノビスケ。破壊力あるフレーズだなぁ。